片想インダハウス/片想い

想像力はベッドルームと路上から」というブログに書かれているフジロック評(というかフジロックdis)がとっても好きで、フジロックの時期になるたびに何度も読み返している。以下、長いけど引用。

 

苗場に移ったばかりの頃のフジロックのスローガンは「この感動を日常に持ち帰ろう」だった。でもいつの間にかフジロックは「3日間の奇跡」となって、日常はその「3日間」に奉仕する為の場所となった。そして現在はただのレジャーになってしまっている。日高さんは「会社を辞めなくてもフジロックに来れるような社会にしたい」と毎年のように言う。だが、それに対する現実的な試みは一切行われていない。

僕がフジロックを嫌いになったのは、それが結局のところ旧世代左翼の自己満足にしかならない上に、音楽の受容の方式ですら60年代の幻想に囚われていることに気がついたからだ。それは過去の焼き直しであり、つまるところ「あの青春をもう一度」って事に過ぎない。その意味において、フジもこれと大差はない。そもそもウッドストック的な「Love&Peace」なんて、「オルタモントの悲劇」で止めを刺されたはずだろうに。

そのような幻想に、音楽に実体と力を与えようとしているアーティスト達を押し込めるのは害悪だと思う。既に概念が更新され、自らの音楽と日常とを密接に結びつけ、成果をあげている人達もたくさんいるのに、何故古臭いイデオロギーに回収しようとするのだろう。本当はその「日常における音楽の現場」こそを押し広げる努力をしなければならないのに、フジロックはそれを「非日常」として回収し、自分達の幻想を保持する為に使役してしまっているという事実に気がつかないのだろうか。それならば、商業主義をベースにおいたまま、メタリカからハーバートまでを飲み込もうとするサマー・ソニックの方が魅力的に映るのだけど。

音楽をあるイデオロギーに押し込めようとする行為も、またそこに含まれている政治性を感じ取れないまま「音楽って素晴しいよね!!」なんていう行為も、「音楽を短小化させる」という意味においては同義だ。

現在のフジロックみたいな、「左翼ごっこ」はもうたくさん。そんな所で音楽は使役されるべきではない。本当に最高の音楽は、日常の中に存在してこそ価値がある。音楽を開放せよ。下らない幻想から。下らない過去の記憶から。下らない商業主義から。下らないフェスティバルから。本当に音楽が必要な場所は「そこ」ではない。「ここ」だ。取り戻せ。「あいつら」から。そう、ステージの上で偉そうに演説をしている「あいつ」から。

左翼親父による幻想再生機関としてのフジロック。~「フェスティバル」を、「音楽」を短小化するのは誰だ?~より)

 

なんて痛快なエントリだろう。個人的には「貧乏人は来るんじゃねぇ」と言ってるも同然のロケーション&チケットの価格設定にも腹が立つし、「Do It Yourself」とか書いてある公式サイトの時代錯誤っぷりにも辟易なんだけど、まぁそのへんは置いといて。

 

先日、8人組バンド・片想いが初の全国流通音源となる「片想インダハウス」をリリースした。ピアノ、ギター、ベース、ドラム、ホルン、サクソフォンスティールパン三線など多様な楽器によって表現される無国籍な賑やかさと、郷愁を誘う唄心あるメロディ。嗚呼、なんて素晴らしい。他のどこでもなく、まさしく「ここ」で鳴り響いている。日常の中に当たり前の顔して存在する最高の音楽。

マスタリングも良くて、色んな楽器が鳴ってるのにゴチャゴチャしてなくて、すごく立体的。つまりライブ感があるってことなんだけど、かと言って「ライブならではのスペシャル感」はないんだよね。すごくフラットなライブ感。結果、ポップでエヴァーグリーン。

片想インダハウス

片想インダハウス

LIFEを目指してつくりました

(MC.sirafu氏のtwitterより)

 この一言に、というより、この一言をあえて発することに、どれだけの矜持が込められているか。想像するだけで胸が高鳴る。片想いなんてとんでもない。これこそ僕らが求めていたポップミュージック。これこそ僕らの日々の泡沫。LIFE IS COMIN' BACK!

 


片想い 「踊る理由」 - YouTube